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足立美術館について

名園と横山大観コレクション

「なぜ足立美術館にこれほど多くの横山大観の作品があるのでしょうか?」とは、当館を訪れる人々の第一の疑問であり、一番多く質問を受けることでもあります。また来館者の大半は、なぜこのような田舎にこれほど見事な庭園が、と半信半疑のような顔をされることが多いようです。
「名園と横山大観コレクション」すなわち日本庭園と日本画の調和は、当館創設以来の基本方針です。
それは、日本人なら誰でも分かる日本庭園を通して、四季の美に触れていただき、その感動をもって横山大観という、日本人なら誰でも知っている画家の作品に接することで、日本画の魅力を理解していただきたい。
そして、まず大観を知ることによってその他の画家や作品に興味を持っていただき、ひいては日本画の美、すなわち「美の感動」に接していただきたいという、創設者 足立全康(あだちぜんこう)の強く深い願いがあってのことなのです。

商売を志したころの足立全康(中央後)

美術館創設までの歩み

足立全康は1899年(明治32)2月8日、能義郡飯梨村字古川(現、安来市古川町:美術館所在地)に生まれました。小学校卒業後すぐに生家の農業を手伝いますが、身を粉にして働いても報われない両親を見るにつけ、商売の道に進もうと決意します。14歳の時、今の美術館より3kmほど奥の広瀬町から安来の港までの15kmを、大八車で木炭を運搬する仕事につきました。運搬をしながら思いついたのが炭の小売りで、余分に仕入れた炭を安来まで運ぶ途中、近在の家々に売り歩き、運賃かせぎの倍の収入を得たことがいわば最初に手掛けた商いといえます。その後紆余曲折、様々な事業を興し、戦後は大阪で繊維問屋、不動産関係などの事業のかたわら、幼少の頃より興味を持っていた日本画を収集して、いつしか美術品のコレクターとして知られるようになっていました。また若い頃から何よりも好きであったという庭造りへの関心も次第に大きくなっていったのです。そしてついに1970年(昭和45)、71歳の時、郷土への恩返しと島根県の文化発展の一助になればという思いで、財団法人足立美術館を創設しました。

横山大観「紅葉」

絵画収集のエピソード

足立全康の収集への情熱は定評のあるところですが、中でも一番思い出深い出来事といえば、1979年(昭和54)に北沢コレクションの「紅葉(こうよう)」「雨霽る(あめはる)」「海潮四題・夏」をはじめとする大観の作品群を一括購入したことでしょう。
1978年(昭和53)に名古屋の横山大観展で見た「紅葉」(六曲一双屛風)に言葉も出ないほどの感動を受け、何が何でも手に入れるのだと八方手を尽くしたところ、門外不出の「幻のコレクション」といわれた北沢コレクションの一部とわかりました。
当時、管財人の手元にあり、その中には大観の作品が「紅葉」以外に20点近くもあり、そのほとんどが展覧会出品作だったのです。さらに驚いたことには、長い間、画集から切り抜いて額に入れ毎日飽きもせず眺め続け、夢にまで見た「雨霽る」が含まれていたのです。苦労の末、2年がかりで全ての大観の話がまとまりかけたところ、購入リストから「雨霽る」と「海潮四題・夏」をはずしてくれと言われました。これは黙ってはおれないと「一目惚れの女性に2年も通い続けて枕金も決め、さあ床入りという時に、枕をかかえて逃げられるようなもんだ。そりゃあんまりじゃないですか」と管財委員会の前で一席ぶち、泣き落とすようにして最後は当館に決めてもらったといいます。

横山大観と足立全康

横山大観

足立全康は自叙伝でこう語っています。
「足立美術館は、時に『大観美術館』と呼ばれることがあるらしい。近代日本画史に不滅の足跡を刻む横山大観の名品が、数多くコレクションされているところから、そう形容されるのだろう。確かに、足立コレクションの基盤となるものは近代日本画だが、その量・質ともに骨格をなすのは横山大観である。長年、大観の偉大さに心酔してきた私としては、本懐を遂げた気分である。大観の魅力をひと言で言うなら、着想と表現力の素晴らしさにあると思う。それは恐らく誰も真似できないだろう。常に新しいものに挑戦し、自分のものとしていったあの旺盛な求道精神が、その作品に迫力と深み、そして構図のまとまりの良さを生んでいる。100年にひとり、あるいは300年にひとりの画家と言われるゆえんも、そこらあたりにあると思う。そんな大画家と私のような落第生とが、絵を通じて縁を結ぶというのは何とも不思議としか言いようがない。人生に対する心意気と気構えにおいて、少しでも似通っているものがあるとすれば、これほど嬉しいことはない」烈々たる気迫をもって院展を再興し、次々と多くの名作を生み出し続けた大観と、14、5歳の頃から山陰の雪の中を素足にわらじがけで大八車を引き、まったくの裸一貫から、日本一の大観コレクションを有するまでになった足立全康は、ともに辛酸をなめ尽くしたというだけでなく、その発想の非凡さ、着想の素晴らしさ、旺盛なる行動力において相通じるところがあったのでしょう。例えば大観が空刷毛(からばけ)といった新手法を編み出して日本画壇に革命を起こしたことと、美術館の運営などまったくの素人であるといいながら、画期的な運営方法をもって年間60万人を超える、国内トップクラスの来館者を迎える美術館に育てた全康の発想の間には、古い考えに縛られない自由な思考の一致が見られますし、大観の作域の広さと、全康の汲めども尽きぬ着想の多様さには、その視点の広がりを見てとることができます。

また、豪壮一途なようでもありながら、出入りの若い表具師を、いかに酔っていようとも玄関まで見送って出る大観の律義さと、超ワンマンのようでいて、孫のような相手にまで、君はどう思うかと意見を求められる謙虚さ。また、多忙の中、地方新聞のわずか数行の取材に対してさえ、前日からメモを用意し、軽口をまぜながら上手く対応したその後で疲れはててしまうといった一途さは、やはり似ているように思えるのです。

晩年の足立全康

夢とロマン

足立全康は1990年(平成2)、91歳で亡くなるまで世界の足立美術館にしたいという夢とロマンを持ち続けました。朝に夕に庭を見て、少しでも気に入らないことがあると庭師を呼んでは陣頭指揮をとっている姿や、何年も前に入手し損なった絵画について「いやまったく名作との出会いは人と同じで、縁だね。絵を集めるのは金じゃない。値段じゃない。いいものが出たら目をつむって掴んでしまえということだ。まったくあの絵は惜しいことをした。いまだに夜中にパッと目が覚めては思い出し、眠れん時があるよ」と口角泡を飛ばして語る姿を思い出しますと、要するに足立全康が出会った絵画といわず、庭園といわず、人といわず、それは、「美しいものに感動する心」を何とかして人に伝えたいという想いが、足立美術館のすみずみまで息づいているといえるのではないでしょうか。来館されるすべての人に感動を与える美術館でありたいと願い続けた足立全康であったと思います。